ケータイ(携帯電話とPHSの総称とする。以下同じ)は今やテレビと並びそうなほどの認知度と普及度を持っている。かくゆう俺もケータイを持っているが、実際ケータイは俺にとって、もはや不可欠のモノと化しつつある。外出するときは必ず持ち歩いているし、家にいるときもすぐ手に届くところに置いてあるのが常である。
俺のケータイは常に電源が入っている。そして俺はヒマさえあればそのケータイを気にしてしまう。目を離していたスキに誰かから着信があったんじゃないかな。誰かからメール来てないかな。そんな思いでついついケータイに手が伸びるのである。
ケータイはそもそも、移動体通信であった。すなわち、いつどこにいても連絡をとれることが目的のモノであったハズである。が、今の俺にとっては、もはやそれをはるかに越えた存在となっている。ケータイを持っていることが、誰かとつながっていることの確認手段となっている気がするのである。
俺はときどきヒマなときに、ケータイのメモリーを眺めることがままある。何十人もの番号とアドレスの連続。それをなんということもなくただ眺めるのである。何かを探すわけでもなく、ただぼんやりと。
ケータイを見る。メモリーに登録されている人を眺める。電話を受ける。メールを受信する。あぁ良かった。少なくともこの人たちは俺のことをときどき考えてくれているんだ。忘れられていないんだ。友だちなんだ。安堵する。電話をかける。メールを送る。
孤独を怖れるのは、自分がホントは孤独であるということを知っているからかもしれない。その寂しさを知っているから。二度と戻りたくないから。だから誰かに認識されたい、心に留めてもらいたいって思ってしまう。無機質な液晶に写し出される文字の羅列に一喜一憂できるのは、その向こうに人の存在を感じることができるから。俺は一人じゃないんだ。良かった。
(2000-05-25)