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人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い。
(中島敦『山月記』)

表現へのこだわり

 俺には、日本語表現へのちょっとしたこだわりがいくつかある。そんなウンチク話を一つしてみようかと思う。

(1)なるべく全角文字(いわゆる)を使う。
 昔は俺も和語(ひらがな・カタカナ・漢字)は全角、英数字は半角と使い分けていたのだが、全角文字が多い文章中に半角英数字が混じるのは、現実的に言って、バランスがとれておらずあまり美しくない――もっとも、全角と半角を美しくカーニングする機能を持ったパソコンなりソフトなりが一般レベルで普及すれば別の話であるが。例えば、「2000年」とはなるべく書かず「2000年」と書くということである。モニタで見ると前者のほうがすっきりして見えるが、印刷した場合は逆に後者のほうがバランスがとれていて美しいことが多いのである。

(2)むやみやたらと難しい漢字を使わない。
 どういう了見だか知らないが、明治時代の文豪かと思うような漢字を使う人を、ときおり見かける。無闇矢鱈(むやみやたら)とか、儚い(はかない)とか、耄碌(もうろく)とか、阿吽(あうん)とか。挙げればきりがないが。こういうのは明らかに漢字変換システムの恩恵におんぶにだっこであり、こう言ってはなんだが漢字力のなさを露呈しているような気がする。
 文章の意義とは何ぞやと問えば、その答えは言うまでもなく「意思の伝達」であると俺は思う。己の知識(あるいは漢字変換システムの性能)をひけらかすことでは決してないハズである。辞書を引かねば読めない――少なくとも一般的な現代人には――ような漢字を使った文章では、伝達うんぬん以前に読んでもらえない。それでは意味がないのである。
 したがって逆に言えば、一般人でも読めるような漢語であれば――それを判断するのは結局は書き手自身なのであるが...――躊躇することなく使ってよいかと思う。例えば「薔薇」とか「老舗」とかは、なるほど確かに平易な漢字ではないかもしれないが、いわゆる人並みの教養がある人ならばまず読めるであろうと思われるレベルであるので、使って差し支えないと俺は考える。
 [ちなみにこの“難しい漢字は使わないようにしよう”という考え方は、作家の司馬遼太郎氏も採用していたと思う。]

(3)補助名詞・補助動詞・補助形容詞は漢字にしない。
 補助名詞とは「食べたとき」や「小さかったころ」の“とき”“ころ”など、補助動詞とは「滅びゆく」の“ゆく”のようなもの(「〜というモノ」などの“いう”も俺としては補助動詞の範疇に入れさせていただきたい。)、補助形容詞とは「速くない」の“ない”に相当するものである。漢字にしないとは、これらを「食べた時」「小さかった頃」「滅び行く」「〜と言うモノ」「速く無い」などとは書かない、という意味である。これは、助動詞を漢字にしない(「歩かない」を「歩か無い」などとは書かない)のを考えてみると理解しやすいのではないかと思う。補助動詞にせよ補助形容詞にせよ、本質的には助動詞的な働きをする語であり、表記上は付属語的に扱うのがよいのではないかというのが俺の考え方なのである。補助名詞についても、またしかり。

(4)自立語だからといって必ずしも漢字にはしない。
 自立語(主に動詞・形容詞・形容動詞)は、基本的には漢字にできる部分は漢字にする。[(2)で挙げたような例は除く。] なぜなら、そうすることによって文節が視覚的に分かりやすくなるからである。「ぼくはやまがすきだ」と「僕は山が好きだ」とを比べれば、それは一目瞭然であろう。
 ただし例外がある。漢字が続いてしまう場合である。これは口語表現の文に多いのであるが、例えば「俺今日学校行ったよ」などと書いた場合、(1)文節(単語)の切れ目が分かりにくい、(2)漢字の密な部分と粗な部分ができてしまいアンバランスであり、見た目的に美しくない、などの問題が起こる。したがって上記のような場合、俺だったら「俺きょう学校いったよ」と書くのである。こうすると、先に挙げた問題点は解決する。ひらがなで「きょう」などと書くのは、なるほど一見すると幼稚な印象がするかもしれない。しかしこれは(2)で述べたのと同じく、文章の存在意義を考えれば我慢できる範囲ではなかろうか。読みやすさを優先すべきであると俺は考える。

 文章とは己の意思を他者に伝えるためのツールであると、俺は考える。ゆえに、文章を表記する段階においては読み手というものを非常に強く意識する必要があると思う。そのうえでは、文の美しさ――美辞麗句という意味ではなく、ヴィジュアル的な意味での美しさ――を考慮するとよいかと思う。「読みやすい文章」は、往々にして「分かりやすい文章」である。目に優しい文は、脳にも優しい文なのである。

  お薦め文献:木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書624,ISBN4-12-100624-0)
(2000-07-06)
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