「日本人」とは何だろう。私はよく、そう疑問に思う。「日本人」に限らず、“〜人”という呼称――「アメリカ人」とか「中国人」とか――全体に対して、イマイチよく理解できない。
―――「日本人」とは誰ですか?
もちろん、社会科学的な答えは明確であろう。日本国の国籍を有する人、それが「日本人」である。しかし我々が日常において使用する「日本人」呼称がそんな狭義の語でないのは、言うまでもなかろう。オリンピックを想定してほしい。アナウンサーは誰を応援するだろうか?――日本国の選手に加えて、彼は外国の選手も応援するであろう。それが、外国の「日本人」選手であったなら。
“生物学的に「日本人」である”という概念は、おそらく_曖昧には_成立しうるのであろうと思う。上に挙げた例でも、たとえ外国籍の選手でも彼が“生物学的に”「日本人」であるからこそ、アナウンサーは彼を応援するのである。ではペルーのフジモリ(元)大統領はどうか。オノ・ヨーコはどうか。人によりけりかと思うが、彼らを「日本人」と考えるのは決して通説ではないと思われる。
「日本人なら、日本を応援して当たり前だろう!」「日本人らしくないな!」そういう言説に、私はつかみどころのない違和感を感ずる。それはおそらくきっと、私が「日本人」という語を心のどこかで拒絶しているからだと思う。私は、自分で意味の把握できない語を使いたくはない。「日本語圏の人々」「日本文化圏の人々」「日本社会を構成する人々」これなら理解できる――というかむしろ、こういった表現を使ってこそ、私にも理解できる。フジモリやヨーコがこれらに該当しないのは明白であろう――こういう考えから、私は「日本人」という曖昧な(あるいは難解な)語を使うことを拒否してしまう。「日本人」という語を使ってしまうことによって、「日本人」なるフィクションの創造に加担することになってしまう気がするのである。
こんなことを言っていると、おそらくナショナリストからは「愛国心がない輩め!」と侮蔑されるのであろう。でも逆に私は問いたい。あなたは本当に「国」を愛せるのか、と。対象が目に見えるモノであったとしても「愛する」とは難しい行為なのに、彼らはいかにして、目に見えない「国」なるモノを愛するのだろう。
愛すべきは、国を形作る「人」一人ひとりであって、「国」などという形而上のモノではない。そのことを知る人ならば、「愛国心」などという薄っぺらな概念を振りかざすことはないはずだ。
愛国心は人類愛と同一である。(2001-09-20)
私は人間であり、人間的であるがゆえに愛国者でもある。
(インド独立の父・ガンディー)