まぁ、いかにも僕らが好きそうな映画なんだけどね。笑
さておき、この映画。
僕の書いた感想文は、世間から見ると
「酷評(けなしている)」と見えるのかもしれないんだけど、
けっこうベタボメしてるサイトもヨソではあったりして。
それは別にいいんですよ。理解できるの。僕も。
あの映画は決して、悪い映画じゃない。デキソコナイではないと思う。
お金を出して観る価値は十分あると思う。僕なら二度でも観たい。
ただね。
決して、いい映画でもないと思うの。
「いい映画」というより「いい作品」のほうが適切な表現かもしれない。
『リリイ・シュシュのすべて』は、決して「いい作品」ではないと思う。
映像的にはとてもセンスあるし、音楽も秀逸だ。
ただ、やっぱり内容が問題。
この映画は、いろんなテーマを提示してる。
それは要するに現代の中学生が肉接してる全テーマ。つまり「リアル」。
万引きもイジメもあるし、売春もレイプも出てくる。自殺も殺人ある。
要するにエロスもタナトスも全部。ありのまま。
僕が問題だと思うのは、それらがただ「出てくる」だけで、
そこから感じとられるような「何か」が、何も無いということ。
実際に映画館で観てみると分かるけど、この映画は見るのにすごく体力が要る。
圧迫感とか、ムカツキ感とか、重圧感とか、嘔吐感とか、
とにかく逃げ出したくなるような感覚が襲ってくる。
だから観終わったときに、とてつもない疲労感・倦怠感が有るんです。
この感覚って何かに似てるなあと思ったんだけど、
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』やドラマ『高校教師』に似てるんだと思う。
つまり何が同じかって
現実(リアル)の醜いところをこれでもか、これでもか、と見せ続けて、
そしてそのまま“見せっぱなし”で話が終わってしまうということ。
観てる方は結局、なんだか知らんが胃をかき回されたような感覚のまま放置されて、
どうにもこうにもヘバってしまいそうな気分になる。
ドラマならいざしらず、映画はこれではいけないと思う。
ただ現実(リアル)を「写実」するだけなら、
そんなのはテレビのニュースやドキュメンタリーに任せてればいい。
映画が映画「作品」たるには、それら事象の羅列の間に
なにかメッセージが秘められてなくちゃいけない。
それは何も「オチをつけろ」ということではなくって、
観客が作品から「何か」を感じとれること(何を感じとるかは観客次第だけれども)、
そして作品を消化して自分の生きる糧とできるということ。
(それは「ハッピーエンドにしろ」ということを意味するわけではない。)
そういうところが無ければ、映画作品として失格だと思うのです。
僕が『リリイ・シュシュのすべて』に満足できないのは、そういう理由。
リアルの寂しさ、醜さを見せつけるだけ(=写実)の映画なんていらない。
そんなのは毎日、この目で見ているもの。
(とはいえ、これだけ多くを語ってしまいたくなるような映画なわけで、
この映画はとても観る価値のある映画だと思います。はい)
(2001-11-16)
■
なんで僕はあの映画を観てあれほどの不快感(一種のモドしそうな感覚)を感じたのだろう、って考えて。
そしてね、思いあたったんです。記憶から消していた“僕の学校生活”に。
「学校生活」ほど特殊というか人為的な環境はない。
快な生活であったか、不快な生活であったか、どちらにせよ
それが後々の人格形成に与えるインパクトは、相当なものがあると思うんです。
それは一意に決まるものではなくって、割合の違いはあれ
「快だった学校生活」と「不快だった学校生活」の両方を、誰もが心に保存している。
そして「人は不快な記憶を忘れることによって防衛する」(フロイト)ものだから、
「不快だった学校生活」の引き出しは鍵をかけられる。
“なかったこと”にされる。在ったこと自体が消される。
その、消したはずの痕跡をスケッチしてしまう映画。
それが『リリイ・シュシュ』だったわけで、
誰もがあのスクリーンの中に、かつて“消した”はずの自分自身を見たのではないだろうか。
だからこそ『リリイ』は、グロくて、不快で、死にたくなる。
「忘れたい人は見なくていいし、忘れたくない人はまた見るわけで」まさしくそうだと思った。当たり前の帰結なのかもしれないが。
おすぎが言っています。
「スクリーンの中に自分を見つけられる作品。それが良い映画。」
やはり『リリイ・シュシュ』は、良くも悪くも問題作である。
(2001-12-21追記)